2025/05/18 22:43
「南方熊楠の愛した兵生」 竹中清 (熊野の森ネットワーク いちいがしの会 二代目会長)
富田川源流の兵生は、明治初期まで田辺藩の藩有地で留山であった。
田辺藩の領主である安藤家は無断で木を切ることを禁止し、家を建てる時など木を切る時には届出をして切った後は必ず元の木を植えることとして、
富田川の源流を大事にしていた。
この頃の富田川源流域(坂泰、大泰、富代地区)は、実生のスギ、ヒノキ、ツガ、モミ、トガサワラの大木がある広大な原生林であった。
昭和6年、この地域は坂泰国有林となり、国の施策で徐々に代が始まり20年間で切り尽くしてしまった。チェーンソーのない時代、ノコギリで1本の木を切り倒すのに2~3日、一定の長さに切り揃えるのに更に何日かかかるような大木を次々と伐探していった。
そんな原生林は、やがて保水力のないスギ・ヒノキの人工林に変わってしまった。昭和49年、兵生の住民たちは田畑にスギ・ヒノキを植林し集団移転した。
原生林の木は、ほとんどがイカダ流しで運ばれた。テッポウという技術で、木を組んでダムをつくり、伐採材と水を貯めて増水時にダムもろとも押し流す方法で運ばれていた。その後、兵生から福定まで森林軌道が造られトロッコで運んだ。
その頃、南方熊楠は何回か兵生に行っている。長い時には40日間いたとも言われている。
まだ原生林は残っていた。兵生の営林署に勤めていた人に30年ほど前、後藤先生と一緒に会いに行った。
その人の話では18才の頃、南方熊楠さんが兵生で色々な植物を採集していて、あそこに変わったシダがある、苔がある。
それを取って来いと言われ、何、このオイヤン偉そうにと思ったが、上司に聞けば世界的に有名な人だと教えられた。
その日から色々な植物、苔などを仕事の合間に取って南方熊楠先生に持って行くと「こんな物、どこにでもある。」とポイッと捨てられた。
1本の木を切った時、先生は「あんたら、この切った木にはカズラ、昔、ランが一杯ひっついとる。
鳥が巣を作っている。虫もたくさんいる。この1本の木に色んな生き物が一緒に生活していたんや。それをあんたらが切ってしまった。」と言ったそうだ。切った木は、何百年も生きて来た。倒した木を越えるのに梯子をかけなければならないほどの大木だ
笠塔山も富田川の源流であり、買い取り保存して原生林を一部残している山である。
大勢の人に見てもらいたいと遊歩道を設置したが大雨ですっかり流されてしまった。
ここはモミ、ツガ、アカガシがたくさん生えてきており元の姿に戻りつつある。
笠塔山には、後藤先生、玉井先生と何回も観察会に行った。掛齢800~1000年のモミ、ツガが主体となった山でオオダイガハラサンショウウオの子供を源流域で見るのが楽
戦後の治水行政は、川を真っすぐにして大水がでたら最短距離で海に逃がすことが洪水を防ぐ方法である。
その結果、川の両岸はコンクリートブロックになり、大きな岩や石が取り除かれ淵が無くなった。
本来、川は自然に蛇行し深みも浅瀬もあり、ゆっくり流れるところも急流もある。
曲線を排して直線を優先したことで魚の数が極端に少なくなった。
その上、少雨の時期には川の水が少なくなりカワウ、シラサギ、アオサギの餌場になっている。
川が海に繋がっているということは、山が豊かであれば大雨が降っても増水は僅かで、雨が長く降らなくても川枯れはしない。
保水力のある山によって自然は保たれる。
川の水が海に繋がってさえいれば鮎、ウナギ、モクズガニなどは毎年、海と川を行き来することが出来る。放流などしなくてもよい。
海のプランクトンを育てるのも豊かな山である。動植物や鳥が棲む豊かな山を作っていかなければならない。
今、車で走っていると川の流域の人工林が目立つ。花粉で真っ赤になったスギを見ると源流だけでなく流域の人工林も何とかしなければと思う。
私が生きて来た 80年間で富田川も山の自然も大きく変わってしまった。これからの50年、100年でどう変わっていくのか。心配は尽きない。
富田川は、和歌山県で唯一ダムが無い川である。